「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』」マタイ 7:21-22

この聖書の箇所だけを用いてメッセージが展開されている場合、その殆どが間違いです。何故なら、それらのメッセージの典型は「クリスチャンでさえ救いからもれてしまう事がある」という結論になっているからです。そもそもイエス様は15節で、「にせ預言者たちについて気をつけなさい」と言っているのですから、明らかに「主よ、主よ」と言う者は偽預言者の事なのです。逆に言えば、自分が偽預言者だと自覚がある人だけが例外として、自分は偽預言者になるかどうかなど心配する必要がないのです。

さらに、これらは「その日」に起こる事だとイエス様はおっしゃっています。仮にその様な偽預言者が現在いるとしても、その日に起きる事である以上、イエス様の言っている偽預言者と私たちが考えている偽預言者とは違います。それから、偽預言者という人たちはいわゆる偽善者であり、彼らは自分自身が暗闇に属する者でありながら、偽善をしている事を認識しているのです。

「また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。」「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」マタイ 24:10-11

多くのクリスチャンは、教会で起きる典型的な問題などに対して、問題を起こした牧師などをすぐに「偽預言者」と軽率に決めつける傾向があります。彼らは明らかに間違った事をしているかもしれませんが、その様な間違いを起こしたクリスチャンの事をイエス様は偽預言者と定義しているのではありません。現状の多くのクリスチャンは、ショックな事かも知れませんが、まだ御国の福音をよく理解していません。救われて天国に行けるという事以外は、全くと言ってよいほど聖書を理解していない上に、霊的に殆ど成長していません。それゆえ、霊的な判断力がないので、誰が偽預言者か見分ける事ができないのです。ちょっと名が知られた牧師が問題を起こしたというだけで、過剰に反応してこの聖書の箇所を間違って引用しているのに過ぎないのです。

もしイエス様の言っている偽預言者が今現在いるとすれば、多くの人は見抜けないのが事実なのです。彼らは、偽預言者ではなく、単に間違いを犯したクリスチャンです。イエス様の言っている「多くの人々」を惑わしているほど大活躍している偽預言者は、まだ現れていません。注意したいのは、そうした偽預言者は様々な奇跡を起こしているというのが条件なのと、そもそも彼らはクリスチャンではなく偽善者であるというのが条件です。

「しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」マタイ 7:23

偽預言者に対してイエス様は全然知らないと言っています。真のクリスチャンなら主に知られています。つまり、最初からクリスチャンでない偽善者が「主よ、主よ。」と言って、彼らのした事を主張するのです。この部分を見落としていると、「クリスチャンで救われていても偽預言者になる」という可能性をイエス様は教えた、などという解釈になってしまいます。確かに、クリスチャンでも信仰から離れる事はありますが、それとこの箇所は直接関係があるという事でもありません。残念な事に、真の聖霊の働きがあったとしても、この箇所を間違って引用して神の御業を否定してしまう人たちもいます。

さらに「その日」とイエス様は言っているので、これは世の終わりの日であり、今日がその日ではありません。まず間違いないのが、明日という日がまた訪れ、それはしばらく続きます。何故なら花嫁である教会が花婿を迎える準備が、現段階では全くできていないからです。今日、しみもしわもない完全に成長した教会は存在していません。

「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」エペソ 5:27

ポイントとなる個所はもう一つあります。それは、父のみこころを行うという個所です。しかし、イエス様は父のみこころは何かというのを既に示しています。

「このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」マタイ 18:14

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」ヨハネ 6:40

父のみこころは、私たちが救われる事なのです。父なる神様がイエス様を送り出したのもその為であるとすれば、当然ながら、人間がその救いの御業を信じるというのが父のみこころなのです。イエス様を信じているクリスチャンがその信仰を保っているのであれば、イエス様を主として歩む事ができるのであり、それは義人として歩む事ができる事を意味しています。ただし、義の奴隷として歩む事ができる為には、御霊による歩みになっていないといけないのです。肉の思いで歩んでいるクリスチャンは、その弱さのゆえに、自分自身で信仰を握り続ける事ができなくなります。

そうならない為には、成長してしっかりと信仰に立つ必要があります。こういった霊的成長を促しているのが特にパウロであり、彼の励ましと叱責の中に霊的成長の教え、すなわち御霊によって歩む事の大切さがよく見られます。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤ 5:16