「疑い」という意味になっているギリシャ語が新約聖書中に3つあります。「Di-stasis」、「Mete-orizo」、そして「Dia-krino」です。

「Di-stasis」は「2つのポジションをとる」 というのが直訳です。

「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」 マタイ 14:34

「なぜ疑うのか。」の「疑う」の語は、「Di-stasis」です。「2つのポジションをとる」という意味です。信仰について言えば、私たちは信じると同時に疑うという状態であってはいけません。ヤコブは二心のある人の事について、次のように言っています。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」ヤコブ 1:6-8

「Mete-orizo」は新約聖書では一度しか出ていません。「移り変わり・変化」の意味があります。

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。」 ルカ 12:29

私たちは何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、などといった事の判断を色々と考える(気をもむ)べきではない、とイエス様は教えています。ただ主を信じて歩むという事が逆に私たちの必要を満たすのです。

「Dia-krino」は判断するという意味があり、これは「良い意味での疑い」とも言えます。つまり、そのまま鵜呑みにするのではなく、良いものを見極めて判断するという事です。

「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」 第一コリント 11:29

「わきまえないで」が「Dia-krino」であり、よく考えずに行動するのではなく、吟味したり、良い判断を下さなければならないという意味が含まれています。

「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」第一コリント 14:29

「吟味しなさい」という語は「Dia-krino」であり、ここでも良い意味での「疑い」が使われています。

ところで、真理に対して「吟味する」というのは悪い意味になります。一度真理が分かった後で疑い始め、それが本当かどうかを分析して確かめるというのなら、その場合の「Dia-krino」は否定的な意味になります。物事の真理を知るための「Dia-krino」は「吟味する」という事で正しいのであり、これはちょうど預言の真理を確かめるのと同じです。ところが、真理である事に対して更に「吟味する」のなら、それはもう「疑い」になるのです。

信仰が、何も迷う事もなく、その他の選択肢を考慮しない、はっきりとした決断であるというのが聖書的です。この判断には、肉の思いからの情報を参考にするべきではありません。聖書の真理に基づく判断(真理に基づく霊的判断)であるべきです。真理に対しては吟味・分析をしたりして疑わず、ただ素直に信じるだけで良いのです。