祈りに関する本や教えはたくさんありますが、それの形式や方法は重要ではありません。祈りの結果が出るかが一番の問題ではないでしょうか?長年祈っても全くその祈りが聞かれないとしたら、一度、新しい視点で見つめ直すのも悪くありません。

まず、私たちが何よりも知らないといけないのが、神様は私たちに対して怒ってはいないという事実です。和解はイエス様の十字架の御業によって完成されているのです。ですから、祈りが聞かれない理由として神様が私たちの罪に対して怒っているからという事はありえないのです。十字架でイエス様が背負った罪は全て赦されています。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」第二コリント 5:19

旧約時代の聖なる人達は神の怒りを鎮める為にとりなしの祈りをしたのですが、イエス様の十字架の御業が完了した現在では、そうした旧約聖書的なとりなしの祈りをする者(和解の為の祈り)は、イエス様だけです。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」第一テモテ 2:5

ですから、恵みの下にいるクリスチャンは、アブラハムやモーセの様に神の怒りを鎮めるようなとりなしの祈りをする必要はないのです。恵みの下ではとりなしの祈りは一切必要ないという事ではありません。恵みの下でのとりなしの祈りは他の人を助ける意味があります。しかし、神と人との間に入って和解させるイエス様が唯一の仲介者です。今日ではイエス様の代わりになる仲介者は存在しません。その様なとりなしの祈りや預言者は存在してはならないのです。

旧約聖書の時代のようなとりなしの祈り手は、イエス様が仲介者となった時に全て用済みとなりました。それはイエス様自身が父なる神と人とを和解させたからです。ですから、恵みの時代において神の怒りが人に下る事はないのです。

旧約聖書の時代の祈り方が今日も必要だという教えを忍び込ませたのはサタンです。しかし、その様な祈り方はもう必要ありません。必死の悔い改めによる祈りや断食でないと癒しの祈りは聞かれないとか、リバイバルが起こるにはそういった「和解の祈り」をする必要があるという考えは間違いです。

どうにかして神様を説得させようとするような祈りは必要ありません。呪文のような祈りや「祈りが聞かれるやり方」なども存在しないのです。私たちの宗教的な努力に応じて祈りが聞かれるのではないのです。祝福は私たちの努力に応じて得られるのではないのです。もしそうであったなら、祝福は恵みによるのではないという事になります。それならば、イエス様の十字架による恵みの現れは何の意味を持つでしょうか?恵みによる祝福なのですから、私たちはそれらを受け取る価値がないにも関わらず神様は与えられるという事なのです。

ですから、私たちが祈る時は、イエス様の恵みのおかげで祝福が与えられるという認識を持つべきです。そうすれば、私たちの人間的な努力ではない事に気づくでしょう。むしろ、御言葉の約束を信じて信仰によって大胆に求めるべきなのです。最初から「祈っても結局は神様のご機嫌次第」という考えなら「祈っても聞かれるかどうか分からない」という前提で祈る事になるので、それならば必死に神様を説得してみようとなります。「どうにかして必死に祈っている事を神様に分かってもらえれば祈りが聞かれるかも」その様にして多くの人が考えています。しかし真理によると、祈りそのものによって神様が答えて下さるというよりも、信仰によって祈る時に事が起きるのです。

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ 11:23-24

天におられるのは私たちの父なる神であり、私たちは神の子供たちです。ですから私たちは、与えられた権威と力によって大胆に山を動かす事ができるのです。このような信仰による祈りが物事を解決する力であり、神様からの答えを頂くという祈りとは視点が全く異なります。神の力は上から稲妻が落ちてくる様な形で現れるのではなく、私たちの内から働くのです。何故なら、私たちの内に神の霊が宿り、その聖霊を通してイエス様が私たちと共におられるからです。与えられた力に従って大胆に宣言する事、これが新しい契約の下で教えられている祈りです。