祈りに関して重要な所は、祈りの結果が出るかどうかです。誰も、ただ祈るだけで満足する事はありません。長い間祈っても、全く結果もでないのであれば、別の角度から、祈りについて考えてみてはいかがでしょうか。

祈りに関して、私たちが知るべき事の一つは、神様は私たちに対して怒ってはいないという事実です。イエス様の十字架の御業によって、私たちは神と和解しました。ですから、神様が私たちの罪に対して怒っている事を理由に、私たちの祈りを聞かないという事はあり得ません。イエス様が背負った罪は全て十字架で赦されています。

神の怒りを鎮める為のとりなしは旧約時代には必要でした。しかし、恵みが実現した現在では、そのような旧約聖書の預言者などが行っていたとりなしの祈りは必要ありません。今では、イエス様が神と人との間に入ってとりなしておられます。律法の契約から解放され、新しい恵みの契約に入ったクリスチャンは、神の子として扱われ、愛する者として受け入れられています。

「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」第一テモテ2:5

新しい契約の下では、とりなしの祈りは他の人を助ける目的で行われます。

恐れを土台とする祈り

神の怒りを鎮める為のとりなしは、恐れが土台となっています。しかし、そのような祈りはもう必要ないのです。神との和解がイエス様の贖いによって成立しているからです。旧約聖書の人たちがとりなしたように、私たちも必死に神に願わなければ、リバイバルは来ないなどと現代のクリスチャンも考えていますが、そうではありません。信仰が明らかにされたので、今は、信仰がベースとなる祈りが必要となったからです。

信仰が鍵

信仰が祈りの鍵だと知れば、どうにかして神様を説得させる為に祈る事はしないでしょう。父なる神様は、私たちが神の子として歩み、大胆にこの地上を治める事を望んでいます。私たちは、「祈りが聞かれる方法」などを模索する必要もありません。ただ、御言葉に沿って信仰によって祈る(宣言する)だけで、様々な奇跡が起こります。私たちが、何か宗教的に熱心になって、必死に努力すれば神が私たちの祈りを聞いて下さるのではありません。神の恵みは、私たちの努力による祈りを通して得られるのではありません。私たちが祈る時は、主の恵みゆえに祝福があるという事を理解しなければいけません。

結果を期待するのが信仰の祈り

「祈ったとしても、最後は神様の御心」という前提で祈るなら、それは、信仰を土台にした祈りではありません。信仰は、目に見えていないものですら、今見えているように考える事ですから、常に結果を期待しています。祈りと結果を別扱いしません。

「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコ 11:23-24

神の子である私たちは、権威を与えられたので、神の子になったのです(ヨハネ1:12)。私たちクリスチャンは、この神の権威と聖霊の力によって歩む事ができます。そうであれば、後は神様を信頼するだけで、大胆にあらゆる問題の山を動かす事ができるのです。このような祈りが結果を伴う祈りであり、これは、信仰を土台にしています。不信仰で乞うように祈るのは、神の子の祈りではありません。私たちの信仰の祈りは、地上を治める力を持ち、あらゆる問題を解決する力があります。これが新しい契約の下で教えられている祈りなのです。