多くの人が神の祝福を望んでいるにも関わらず、それを体験できない理由は何でしょうか?実は、その原因の一つが、御言葉が心に植えられていないという事実があります。御言葉を理解するというのは、勝利あるクリスチャン生活を送る為に最も重要な事の一つです。しかし、御言葉を頭で理解するという事と心で信じるという事は別です。

イエス様は神の言葉を「種」としてマルコの4章で表現していますが、それは私たちの心の中に植えられないと意味がありません。良い土地に植えられた種だけが、実を結びました。ここで、自然の法則による植物の種が実を結ぶまでのプロセスを考えてみて下さい。それ自身は小さなもので何も力がありません。まずは、土の中に植えられないと成長しません。

奇跡を期待して祈っても、その奇跡を生み出す為の「御言葉の種」をまず植えなければ、その実を見る事は不可能です。実を結ぶ事ばかり考えて祈っても、その種をまず最初に植えないのなら、その祈りは希望の祈りであって、信仰による祈りでないなら意味がありません。

マルコの4章でイエス様は、御言葉と神の国の関係を種と実の刈り取りにたとえています。これはイエス様が語った最初のたとえ話であり、これを悟る事が他のたとえ話の意味を理解する鍵になっています。

「そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」マルコ 4:13 

新改訳では少し分かりにくいので、この節の最後の部分をギリシャ語から見てみます。

pOs(どうして how)pasas(全ての all)tas(冠詞 the)parabolas(たとえ複数 parables) gnOsesthe(知る know)

「どのようにしてすべてのたとえ話を知る事ができるか?」という訳がより直接的です。イエス様のたとえ話全てを理解するには、まずこの種まきのたとえから知る必要があるのです。*新改訳 2017 では「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。」とより直訳されています。

種まきと刈り取りの様な自然の法則は神様が定めたもので、種を蒔いて芽が出るまでのプロセスがあります。このプロセスをスキップする事はできません。御言葉を心の内に蒔いてその実を刈り取るまでには時間が掛かるのです。

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」マルコ 4:26-29

丁度、蒔いた種が土の中にとどまっていなければならないように、神の御言葉も私たちの心の中にとどまっている必要があります。

もしあなたが庭に植えた種を毎日のように掘ってどうなっているのかを確認するようならどうなるでしょう?その蒔いた種はそのうち死んでしまうにちがいありません。それと同様に、御言葉の種も心の中に植えておく必要があります。

ある人は辛抱できなくて、掘り出してしまうのですが、そうすると実を結ぶのに余計な時間が掛かるでしょう。そのままに土の中に植えておけばやがて芽が出てきて成長するのです。そして、成長にも段階があります。

「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。」マルコ 4:28

私たちは忍耐がないので、すぐに実が成るのを期待します。ところが、その前に幾つかの成長段階を経ないといけません。この事を知らないで自分勝手に肉の思いで色々とやってしまい、信仰を持って忍耐を働かせないと、神様からの祝福を現実化できない事もあるのです。

神の国は神の法則に従っています。より早く信じる様になる事は、ある程度は可能ですが、御国の法則のプロセスを完全に無視する事はできません。それどころか、私たちはむしろ、御言葉を聞いてもすぐに信じる事ができない事がよくあります。ですから、御言葉が理解できたのなら、それが心に植えられるようにしなければなりません。また、発芽して成長するまでしっかりと守っている事も大事です。私たちの心が良い土地であるなら、私たちは必ず実を結ぶでしょう。