祈りが聞かれない理由を挙げるとすれば、それはどの様なものでしょうか?比較的熱心なクリスチャンなら、毎週の主日礼拝、日々のデボーションも欠かさないはずです。しかし、それでも祈りがなかなか聞かれない事は、多くのクリスチャンが経験します。毎日やるべき事をやっていれば、きっと祈りは聞かれると考える人は多くいます。ところが、この様な考えは神様の恵みをよく理解していないものである場合が多く、行いにこだわった律法主義なものになっている事があります。

祈りは私たちの努力とパフォーマンスによって聞かれるというわけではありません。唯一私たちの努力があるとすれば、それは信じるだけなのです。信仰によって立ち信仰によって歩む事は私たちの責任なのです。クリスチャンとしてやる事は多くあっても、それらは全て信仰によって行っているかどうかが鍵です。ただ何かをやってもそこに信仰が伴わないなら意味がありません。さらに、恵みという神様からの好意をまず第一に考えないと、何をどこまでやるのか、何が宗教的な行いなのかそれとも信仰なのか分からなくなる事もあります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

まず神様の恵みがありました。その恵みは旧約時代には多くの人には明らかにされていなかったのですが、約二千年前のイエス様の十字架の御業において、今ははっきりと私たちに示されています。恵みの業が最初に示されているゆえに、イエス様の十字架の御業を信じる事によって私たちは永遠の命を得る事ができるのです。しかし、この信仰は永遠の命についてだけに適応されるのではなく、私たちが神様の子供としてする事全てに関わります。

十字架の恵みが明らかになった今、人の信仰が働くのは神様の恵みゆえである事も明らかになっています。私たちが信じて義と認められるという事そのものが恵みです。ですから、私たちの努力次第で祈りが聞かれるとかいう問題ではありません。私たちが義と認められたのは熱心な祈りによってではないからです。多くの人はこの事についてまだよく理解していません。鍵となるのは、恵みと信仰が常にセットになっているという事です。つまり、神様のする事と人のする事があるのです。神の側でする事は恵みを与える事であり、人の側でする事はその恵みを信じるという事です。

恵みは既に現れています。ですから、全ての人が主を信じるだけで救われるのです。そして、信じるという事が私たちの唯一のすべき「努力」なのです。ただし、信仰にも行いが伴います。信仰による行いは、単なる行いだけのものとは異なり、宗教的な形だけの行いや間違った動機に基づくものとは違います。信じているがゆえに、それが行いとして自然と外に表れるという事です。

神様の恵みに対する正しい応答は信仰によってその恵みを受け取るという事に他なりません。信じるという部分は私たちのする事であり、信じた時に救われたり、癒しが起きたり、その他の祝福を見ることができるのです。更に言えば、御言葉の約束を信じるという事が信仰なのです。漠然と神様の存在を信じるとか、神様の力の存在を信じるだけでなく、御言葉を理解してその真理を信じるという事が信仰です。

私たちの良い行いに応じて神様から祝福を得るという考えなら、それは宗教になってしまいます。そこには信仰がないからです。罪の赦しでさえ私たちの悔い改めに応じて神様が赦して下さるというプロセスではないのです。私たちの罪は、私たちが生まれる前にイエス様が十字架によって取り除いてくれました。私たちが悔い改めた後に神様が私たちの罪を赦して下さったのではありません。全ての罪は十字架の恵みのゆえに既に赦されています。悔い改めそのものは罪を赦していただく必須条件的な行いではないのです。悔い改めは既に赦された私たちの歩みが、神の子として霊によって歩むようになる為の最初の方向転換(考えを変える事)なのです。

恵みをよく理解していないクリスチャンは、気づかない所で宗教的な行いをしてしまっています。祈りが足りないから祝福をもらえないと考えています。或いは、聖書をよく読んでいないからとか、その他の理由を幾つも並べて全てをこなそうとします。それらは重要なものですが、それらをする事によって神様を動かして祝福を得ようとする考えは間違っているのです。恵みゆえに神様からの祝福は既に私たちクリスチャンに与えられており、後は祝福を現実にするだけで良いのです。ただし、祝福を現実化する方法が信仰によると聖書は教えています。

罪を赦して頂く為に私たちは神様に何かをするべきでしょうか?聖書では、私たちがまだ罪人であった時から私たちの罪は赦されているという視点から教えています。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ 5:8

キリストは私たちが悔い改めた後で十字架に掛かりませんでした。私たちが何かをする以前に既に十字架による贖いの計画をしておられ、まず恵みを私たちに示したのです。恵みは私たちの宗教的なパフォーマンスによって神様がそれに応じたものではないのです。ですから、私たちは素直に感謝してその恵みを受け取れば良いのです。祈りも聖書の通読も、献金や教会に熱心に通う事などは全て恵みを受け取る条件ではないのです。

神様の恵みは永遠の命の為だけではありません。その他の祝福全てが恵みによるのです。神様によって恵みが先に示されたのは、神様が私たちの必要を既に知っていたからでした。私たちの必要に応じて祝福を天から降り注ぐという事ではありません。私たちが病気になる前に既に癒しを用意しておられたのです。経済的な祝福も、その必要性が起こる前にあらかじめ恵みによって用意しておられたのです。ですから、十字架の恵みが現れた時には既に私たちの必要に対する準備も完了していました。

現在、救い、癒し・解放があるのは、既に示された十字架の恵みによって私たちがそれを信じて行動するからです。これが基本です。約二千年前に、恵みは十字架の御業を通して明確に現れたのですから、私たちの宗教的な努力によって奇跡が起こる事はありません。今日、救いやその他の恵みが私たちの間で現実化するのは、私たちの宗教的な行いではなく、信仰によって祝福を現実化した時なのです。注意したいのは、信仰自体も「神様を動かす」為の力ではありません。神様は既に動いたのです。神様の側では全てが完了したのです。何が完了したかと言えば十字架の恵みです。後は私たちが信仰によってその恵みを現実にするだけなのです。ですから、恵みは信仰がないと私たちにとって意味がありません。

多くのクリスチャンは神様はその御心によって何でもしてしまうと考えています。ある教えは、神様はこの世のもの全てを完全にコントロールしていると言います。それは神様のみこころによらず事が起こる事はないという憶測からの誤解であり、その様な教えは神様が人の自由意志さえコントロールしているという矛盾も主張するのです。神様は自由を与えているのですから、私たちの意志はまさしく「自由」なのです。全ては神のみこころ次第であり、私たちはそれに対して何もする事ができないという考えは間違いです。

人が不幸な事に遭遇するのも全て神からのものだとすれば、神様の定義そのものが危ういという事に気づいてください。悪をもたらすのは神様なのでしょうか?この質問に自信を持って答える事が出来ないクリスチャンは、神様の愛と恵みをあまりにも知らないと言うしかありません。魚を下さいと言う子に対して人間の親でもその通りにするとイエス様は言いました。神様が災害などをもたらすなら、天の父なる神様は人の親よりも悪い事をしているという事になります。しかし、全て悪いものはサタンから来るのです。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ 10:10

イエス様は私たちの身代わりになったほどに愛しています。彼の十字架の御業を通して私たちに永遠の命を得させるために来たのに、なぜ病気やその他の不幸を「試練」という嘘でごまかす事があるでしょう?嘘が見抜けなくなったクリスチャンにも問題はありますし、その様な嘘が広まっている現状も問題です。神による訓練は確かにありますが、それは人の死や病気という形で来るものではありません。

人の親でもその子供に何かを教えるといって、命に関わるような事をしてそれを「教育」と言うでしょうか?間違った考えを持つ人の親ならそうする事もあるでしょう。しかし、私たちの神様は完全なる方であり愛の神様です。それともその愛の定義もクリスチャンにとっては分からないのでしょうか?

恵みと信仰 その2に続きます。