神様に対する間違った見方を持っていると、私たちは恵みを体験できないでしょう。悪い出来事が全て神から来ているとするなら、いかに神が多くの犯罪を犯してきたかについて、私たち人間がその事を裁くようになるのです。もし全ての悪が神からなら、愚かな人間が神を裁くような事が起こりうるのです。私たちの成長の為にといって神様がサタンに許可を与えているとか、色々な問題を私たちに与えているとかいう教えは大きな間違いです。これは多くの人々の希望を破壊し、全ての事において消極的にさせてしまいます。

その様なものを神からの試練として喜んで受けているクリスチャンは、サタンを喜ばせているのに気づいていません。つまり、サタンを崇拝しているのと同じです。悪いものを良いと言っているのであり、悪い事に対して神からの試練と考えているのであれば、これはサタンに栄光を帰しているのです。私たちの主は、癒しの御業によって栄光を受けるのであり、人間が病気などで苦しむ事によって栄光を受けるのではありません。その様な悪はサタンの栄光なのです。

「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」ヨハネ 9:2-3

「神のみわざが現れる」という部分は、盲人の盲目そのものではなく、その後にイエス様が癒してくださった事です。この様な良い事は全て天からくるのです。

サタンが悪い事をするけれどもそれを許可するのは神様というのも間違いです。それならば、結局サタンではなく神から悪が出ているのと同じです。そこをどうにかしてうまく説得させようと教えても、完全に矛盾しています。この教えで見落としているのは、サタンも自由意志があり、サタンは神様の許可を得て動いていないという事実です。サタンは悪の根源であり、いちいち神様の許可を得て行動しているわけではありません。

もし本当に神様は全ての事を完全にコントロールしているのなら、何をどうするかという事について人間が考える必要もないでしょう。全ては神様次第なのですから。全ての病や人の死も試練として与えられているのなら、どうしてその病気を直そうとクリスチャンは必死になるのでしょう?思う存分苦しんで苦しみの中からたくさん学ぶ事が、神様からの試練を受けるのにより適切な態度ではないでしょうか?悪が神様から来るというのは本当に愚かな考えです。

「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」イザヤ 5:20

人が病気になったり経済的に困ったりする時に、そういった形の試練を通して神様はその人を教えたり謙遜にさせている、という考えは聖書的ではありません。これはまさに悪を善と言っているのです。赤ちゃんが死んでしまった事や、様々な悲惨な暴行、貧困や病気などについて神様は責任はないのです。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブ 4:7

私たちは神に従うべきであり、悪魔に立ち向かうべきなのです。病気に対して戦うべきです。そうしないならば、病気に従ってしまう事になるのです。サタンに対して「どうか私たちを苦しめないでください。」という様な発言はサタンに立ち向かう姿勢ではありません。サタンに対して聖なる怒りを燃やし徹底的に戦う事が必要です。人が悪は神から来ていると信じてしまうなら、サタンに立ち向かう事などしないでしょう。まさにサタンの思うつぼです。

神のみこころは自動的に全てこの地上なされているのではありません。そうなっているのは天においてのみです。ですから私たちは常に御国が地上にも来るように宣言し、みこころがこの地でもなるように宣言するのです。神様は私たちに祝福を与えておられます。ところが、それも全て自動的に私たちの生活で体験しているわけではありません。私たちは主からの祝福を信仰によって現実化させる必要があります。与えられたプレゼントはその箱をあけるまでは特に意味がありません。箱をあけるには信仰が必要なのです。恵みは既に与えられています。後は信仰によって恵みや祝福を現実化するだけです。

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」使徒の働き 10:38

神様の御心とは全ての人が癒される事です。イエス様は良いわざをなして、全ての者を癒されたのです。私たちの神様はそういう方なのですから、病気は神様からの試練という考えはもうやめましょう。同時に、多くの場合、神様のみこころは私たちの信仰を通して成就するという事も忘れていはいけません。真理を信じる者にとって自由が約束されているのであり、真理を退ける者にとっては意味のないものです。聖書は真理を語っているのですが、その真理を私たちは信じる必要があるのです。

全ての良いものは私たちのものです。それを信仰によってどんどん実現化させていきましょう。聖書のいろんな約束はイエス様の十字架によって私たちのものなのです。福音とはこれほどまでに良い知らせなのです。ですから、良いものと悪いものを混ぜてしまうような考えは禁物です。恵みに対して私たちは、素直に感謝して信じて受け取りましょう。

こういった正しい見方をしていれば、祈りが聞かれなかったとかいう問題がなくなってきます。神様に対する間違った見方そのものが信仰の働きを妨げているのです。「神の主権」や「神様の性質」に関してしっかり理解して大胆に信仰を持つならば、勝利のクリスチャン生活を経験できるのです。

最後に、恵みと信仰にはバランスがあります。恵みばかりを強調しすぎて、全ては神様がやってくださると考えて、何もやらないでよいという教え(ハイパーグレイス)もあります。神様のしてくださった事と私たちのすべき事をしっかりと認識するべきです。恵みは神からのものであり、それに対する正しい応答が私たちの信仰なのです。そして、恵みと信仰が合わさる時に私たちは神の御業を見る事ができるのです。

「イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネ 6:29

時には私たちの信仰なしに、神様が御業を表す事もあります。しかし、基本的には私たちの信仰次第なのです。もし神様の御業の表れが神様次第なら、宣教やその他の信仰による行いをする必要がありません。そして、私たちの信仰を通して神様の御業を見るというのが稀な方法だとしたら、どうして聖書では信仰を持つように教えるのでしょう?しかし、真理によれば、私たちの主は私たちが彼に信頼して信じる事を期待しているのです。