経済的祝福のトピックとして説教で取り上げられるものの一つに、献金があります。金銭・財政の管理についての教え全般に渡って共通する真理があります。次の聖句からイエス様の言葉の意味が分かれば、お金の扱い方の重要性が分かってくると思います。

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。」ルカ 16:10-11

イエス様によれば、小さい事がまずできないでは大きい事はできないというのです。ここでは、金銭的な管理は小さい事であり、霊的な管理はそれよりも大きいとされています。この世の代表であるお金はきちんと管理するべきだと神様は要求しておられるのです。そうでないならば、霊的なより責任重大なものは任せられないとおっしゃるのです。パウロは「金銭を愛すること」はすべての悪の根だと言っていますが、お金自体は悪ではありません。それどころか、それを管理するというのはむしろ神様が私たちに望んでいる事なのです。これは、大きな視点では、この世で神の子としての歩み方につながります。私たちはこの世に生きているのですが、この世のものではなく主によって新しい霊によって生まれ変わったものです。しかし、地上を治める神の子供たちの責任の一つとして、いかに世の富を上手に管理するかを理解する必要があります。

いわゆる「献金」も金銭的管理の一つです。私たちが理解しなければいけないのは、まずこの語の定義です。この記事ではあえて「献金」という語を用いていますが、実際その意味する所は「新約聖書による献金」です。新約聖書では別のギリシャ語が使われています。

さて、殆どのクリスチャンは恵みの下にいる事を知らずに未だに律法的な献金をしています。献金をすれば漠然と祝福されるというような考えはその典型でしょう。献金と癒しを結びつけてしまったメッセージや、献金を信徒の義務として強制的にしている教会もあったりします。間違った教えが広まってしまったという問題と同時に、それに気づかないでいる信徒にもある種の責任はあると思います。私たちは神様の祝福がお金で買えるものではないという単純な真理を知るべきです。

お金で何かを得るという手段が、経済的な神の法則になっているのではありません。信仰に基づいて喜んで与える者に神様は祝福して下さるのです。しかも、基本的には癒しなど十字架での御業によるものは、献金と関係がないのです。私たちが信仰によって献金をしても、肉体の癒しとは関係ないのです。癒しが約束されているのは、キリストのうち傷によってなのです。もし、そうでなかったなら、イエス様の背中に受けた傷は何の意味があるのでしょう。献金によって神様から祝福を受ける事があるとすれば、それは経済的祝福なのです。イエス様もそのように教えています。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカ 6:38

献金についての教えでよく引用されるマラキ書の 3章は、内容自体が律法の視点で書かれているのであって、もはや現在では完全な自由の律法によって効力のないものになっています。律法がイエス様によって成就された今、再びモーセの律法に戻る必要はありません。愛の律法がモーセの律法よりも優れているからです。献金に関する一般的な教えの間違った部分は、律法と恵みを混同しているところです。更に言うならば、モーセの律法はイスラエルの民に与えられたのであって、異邦人には最初から全く関係のないものなのです。一般的な献金についての誤解は、律法主義からの視点になっています。マラキ書3章の聖句を用いるなら、私たちは律法に戻っているのです。

「そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」第二コリント 9:5-7

パウロの献金についての理解は宗教的・律法的な視点からではありません。うわべだけの行い・儀式ではなく、信仰に基づいた行いを強調しています。「強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。」という箇所です。私たちも強いられてではなく、喜んで与える者となるべきです。何故なら神様は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と書いてあるように、私たちの心を見るからです。ですから献金をするという行為そのものに力やご利益、或いは「経済的な神の法則」があるのではなく、私たちの信仰による行いを通して主は私たちを祝福されるのです。逆に言えば、信仰のない献金は意味がないのです。例え周りの人には良いように見えても、信仰が伴っていなければ、その人間的な行いは死んでいるのです。

献金によって神様からの祝福が得られるという教えは、きちんと説明がなされていないと大きな誤解を招く結果になります。何故なら、献金をする人たちの動機が不純になりやすいからです。お金で祝福を買うという間違った動機です。こうなると、献金をする真の目的を見失い、その行為だけが重要視されてしまいます。祝福されたいから献金するという考えは律法主義なのです。献金をすれば諸々の祝福を受けるという教えは、人々の献金に対する動機を不純にするのです。Give and Take ではありません。

献金によって神様からの祝福を受けるというのは、確かに神の約束に基づいていて聖書的なのですが、究極的にはそれはモーセの律法の視点からです。恵みの下での献金は信仰による行いであるというのが基本です。信仰を知らなかった旧約時代の人たちは儀式的に献金をしていたにすぎません。律法の本質をよく理解していなかった為に、全ての良い行いがうわべだけの宗教的なものになってしまったのです。イエス様はその束縛から人間を解放して下さり、自由に喜んで与えるべき者になるように更に優れた道を示してくださいました。それは完全で自由な律法です。それは愛に基づく教えです。そして献金も愛に基づきます。

確かに「献金によって経済的祝福を信じる」というのは正しい見方ですが、 動機が律法主義であるならそれは幼い考えなのです。そして、私たちが経済的に豊かになるのは私たちが贅沢に暮らす為ではありません。肉の思いで判断すると世の富を追及するという事になるでしょう。しかし、御霊の思いによって歩むべき私たちは、自分たちの経済的祝福を通して他の人を助けるという特権に注目すべきです。自己の贅沢な生活を満喫する為ではなく、他の人を助ける事が究極的な経済的豊かさの追求なのです。ですから、自分の為にもっと受ける為の献金ではなく、むしろ、より多く与える為の献金という捉え方が正しいのです。受けるよりも与える方が偉大なのです。これが大人の考えです。

献金についての理解 その2に続きます。