献金をどの様な時にするのかという問題もしばしば挙がります。多くのクリスチャンは、彼らの全ての必要性が満たされた後に献金すれば良いと考えています。ところが、私たちの神に対する贈り物は「初穂」であるべきです。次の箇所は律法の下での教えですが、私たちは更に優れている契約の下にいるので、本当ならば「初物」以上のものであるべきなのです。ここではまず、その理解から入りましょう。

「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。」 箴言 3:9

最初に主に与え、その後に自分たちの生活の必要を考えます。この事からも、献金は信仰を要する行為であるのが明白です。ただし、献金をしなかったからと言って呪いが掛かるという事はありません。律法の下では、律法によって裁かれる呪い、つまり律法を犯した結果の刑罰がありました。しかし、今は律法による刑罰は全てなくなりました。イエス様が十字架に掛かったので、私たちに対する律法の要求・負債はないのです。献金は自由に行うことができ、誰からも咎められる事はないのです。同時に、モーセの律法でも実は意図されていた「信仰による行いとしての献金」は、私たちが主から受ける経済的祝福に直接的に関わり、これは旧約時代からも引き続いて常に真理なのです。

ある教会が信徒に対して特別な献金額の目標を掲げて、信徒に献金するように促しているケースをしばしば見かける事があります。極端なケースにおいて、その目標額に達するまで必ず皆が献金するようにと促すのです。金銭的援助があるという事を報告して、軽く促すなら問題はないでしょう。ところが、ニーズを強調しすぎてしまうと献金が強制的になってしまいます。こうなっては喜んで与えるという気持ちがなくなり、形だけの、その場を逃げる為の献金になるかもしれません。

指導者は信徒が献金を自由に自ら進んで、信仰によってできるように促すべきです。人の肉の思いが作った組織(一般的な教会)を築く為の目的で献金を促すのは間違っています。例え教会の発展の目的で献金が集められても、そのお金の管理が一人一人の信者の徳になるものでないと本末転倒ですし、そこから生じる様々な問題は教会にとっても信徒にとっても、大きなダメージとなります。詳しくは、聖書が意味する教会にて本来の教会の在り方や機能を学んで下さい。

献金は喜んで与えるべきであるというのがパウロの教えです。ただ形だけにこだわった儀式的な行いではありません。ですから、教会の指導者から強制されているような状況で献金するのは、まさに最悪のタイミングなのです。逆に、常日頃から肉の思いで歩んでいるクリスチャンがいたとして、喜んで与えるというのを曲解して、自分は喜んで与える気持ちが無いというので、全く献金をしないでも良いと解釈するべきではありません。そもそも献金を単に「しないとだめなのか」という論点で見るべきではないのです。

恵みの下では献金をしないでも律法による罰則や神様からの呪いはありません。同時に、信仰によって行う献金ではないなら経済的祝福もないのが真理です。チョイスはあなた次第です。ただ、どうせ献金するなら聖書的な理解でした方が良いに決まっています。御言葉の勝手な解釈、個人的意見に基づく献金であるなら何の祝福もないからです。

「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」 第一コリント 9:11

御言葉が霊の糧として私たちに与えられています。ある集会で誰かがメッセージを聞いてそれが彼の霊的成長に役にたったなら、そのメッセージをした人は報酬を受けるべきです。これがパウロの教えです。注意したいのは、自分が通っているのがホームチャーチだというので、自動的にそこが献金する場所とは限らない事です。学んでいる人が教えている(御霊のものを蒔いた)人から学び、それによって成長しているかどうかが鍵です。その教会に集っているというだけで、献金しようという判断は間違いです。お情け献金するというのも同様に間違いです。それらの行いは宗教的であり、信仰に基づいて喜んで与えるものとは違います。義理の献金は非聖書的です。

「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」第一コリント 9:13-14

「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」ガラテヤ 6:6

「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。」第一テモテ 5:17-18

御言葉を聞いてあなたが成長しているかがポイントです。誰でも食事をした所から離れて、別のレストランで勘定を払うような事はしません。食べた所でお金を払います。献金がこの様に単純な教えである事に気づかないのも、長い間献金が宗教的な行為として教えられて来たからでしょう。単なる人の伝統は御言葉を無にしてしまいます。

教会がきちんと機能していない事自体が大きな問題なのですが、だからと言って御言葉を教えない集会をサポートするのは、意味のない集会を無意味に存続させるようなものです。厳しいかもしれませんが、そもそも聖書的な教会の機能がゼロなのに、そこに集う事の違和感を我慢しつつ通い続け、短期間は何となく宗教的達成感を果たせたように感じたとしても、結局本人が飢え乾くだけなのです。

そうした「教会生活」を続けるのなら、次第に信仰によって歩めなくなるのはむしろ当然でしょう。聖書的な機能を完全に果たしている教会を探すようにと言っているわけではありません。まだその様な成長した信徒の集会が存在しないのも事実です。ただ少なくとも、そういった部分をよく考えもしないで「献金」をしている事も問題なのです。

「いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。」第一コリント 9: 7

パウロはコリントの信者たちに負担をかけたくないと思って、彼らから受け取るはず「福音の働きから生活のささえ」をあえて受け取りませんでした。彼らが肉に属する人(コリントの人)たちで幼かったからです。彼自身からそれを主張する事もまた、報酬の為に福音の働きをするという誤解になるので、あえて自らはそれについて主張しなかったのです。彼らに負担をかけなかった事をパウロは彼の「不正」だったとして後で皮肉を言っています。(第二コリント 12:13)

Prosperity Gospel という名で知られている教えがありますが、近年に一部のワード・オブ・フェイス(Word Of Faith)の教師たちがその教えに基づいて起こしてしまった献金に絡む金銭問題が注目を集めました。彼らは他のワード・オブ・フェイスのグループと同様に、主に信仰と癒しについてより聖書的な立場をとっているグループなのですが、経済的祝福のメッセージに関しては極端な立場をとっていました。主にあって経済的に豊かにされるという「神様の恵み」を「信者の権利」として教えていました。経済的に豊かな者になる事が神のみこころだとして、必要以上に金銭的な祝福を教えてしまいました。

これによって、ワード・オブ・フェイスの教えやその教師全体に対する賛否両論が大きくなってしまいました。ワード・オブ・フェイスの父と呼ばれていたケネス E. へーゲンは、それを正す為に彼の教え子たちを集めて厳しく叱ったほどです。一部の人たちが極端に走ったからと言って、「彼らの教え全てが間違っている、異端の教えだ」と結論付けるのはお粗末ですが、残念ですがこういった問題は大きく取り上げられてしまいがちです。実際にアメリカでは彼らを批判している人たちがたくさんいます。

献金がまず第一に自己の金銭管理という点から見るべきです。キリストのからだとして集まる集会(エクレシア)で御言葉を教えているリーダーのサポートは献金という形でなされるべきだとパウロは教えています。それでも、間違った教えをしている牧師・教師に献金をするべきではありません。何故なら、そういった非聖書的献金自体が、あなた自身の神様に対する金銭管理に関わるからです。神様は一人一人に、しっかりとしたお金の管理者になるように望んでいます。