誰でも疑いを持つ事はあります。聖書中の信仰の人たちでさえ疑う事はありました。信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえそうでした。疑いは信仰の逆で、不信仰の事です。ギリシャ語の「疑う」という語を知ると分かりやすいでしょう。

「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」マタイ 11:11

どういう理由でイエス様はバプテスマのヨハネが天の御国で一番小さい者でも彼より偉大なのかは説明していません。私の個人的な意見を言うならば、バプテスマのヨハネが他の人と違う点が恐らく理由だと思います。それは、バプテスマのヨハネが「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」ていた事と、「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、整えられた民を主のために用意する」という彼のするべき事を生まれる前から知らされていた事に関係すると思います。実際に彼の存在はとてもユニークで、イエス様がどなたであるかを最初に知った人でした。

「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」ヨハネ 1:33-34

私の憶測にすぎないのですが、バプテスマのヨハネは来たるべき救い主であるイエス様について語る旧約時代の最後の預言者として、生まれながらに自分のやるべき事を知っていた為に、他の人とは違った形でキリストを信じる事ができたと思います。イエス様が神の子であるという啓示を与えられ、しかも預言者のうちで唯一救い主を直接見ることができたという部分で、彼は女から生まれた者の中ですぐれた人だったと私は思います。

その彼は逆に天の御国においては一番小さい者となっているのは、これも憶測ですが、バプテスマのヨハネの様な特別な啓示によらずに主を信じるという事が、ある種の天国における報酬になるからだと思います。信仰によって私たちが成長してより多くの実を結び、ある者は30倍、60倍、100倍と豊かな実を結ぶ事によって、天において受け取る報酬が違うからではないかと思います。

いずれにしても、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」とイエス様が言った以上、この部分は真理である(何故ならそれ以外の解釈の余地がない為)事には間違いありません。ところが、そのバプテスマのヨハネでも疑いを持ってしまいました。彼はヘロデに捕らえられて牢に入れられたのですが、その時に彼の弟子をイエス様のところに遣わしました。

「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。』」マタイ 11:2-3

主の道を備える為に生まれながらにして自分のするべき事を知っていたヨハネでも、捕まってしまった時には疑いを持ったのです。彼にしてみれば救い主が来られたのにも関わらず、彼の人生の全てが順調ではありませんでした。獄中にいて自分の身が危険にさらされている立場からすれば、何かがおかしいと感じたのも無理はありません。ついにはイエス様が本当に救い主かどうかさえ疑ってしまいました。自分で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と大胆に宣言したのにも関わらずです。この事はある重要な意味を持っています。

つまり、例え主に特別に扱われていても、その人の信仰次第によって、その人生に何か大きな影響を与える事ができるという事です。例えある人が「特別な選び」の者であるとしても、失敗するか成功するかは、その人の信仰次第なのです。神様が選んでいるからといって、全てがそのまま自動的に何もかもうまくいくとは限らず、あくまでもその人の信仰が鍵であり、ある意味全ては神様次第ではなく、自分たちの信仰次第であるのです。

「イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」マタイ 11:4-6

これがイエス様のバプテスマのヨハネに対する答えでした。疑いを持ってしまったバプテスマのヨハネに対して、「安心しなさい。私が神の子です。」とご自分がキリストであると宣言して安心させるような事は言いませんでした。それともイエス様は獄中にいるバプテスマのヨハネの苦しみを知らなかったのでしょうか?実はイエス様はバプテスマのヨハネの弟子が立ち去った後に、群衆に対してご自分について次の様に話されました。

「この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」マタイ 11:7-9

預言者よりもすぐれている者とは、イエス様ご自身の事です。では何故この様にバプテスマのヨハネの弟子に、ヨハネにそう伝えるように言わなかったのでしょう?この部分も明らかに聖書では説明はされていないのですが、特別な「霊的解釈」なしでもその理由が次の聖句から理解できると思います。

「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」イザヤ 35:5-6

この個所はイエス様がバプテスマのヨハネの弟子に言った内容(マタイ 11:4-6)と同じであることが分かると思います。イエス様はイザヤ書 35:5-6 を直接引用したのではなく、その聖句の趣旨を言ったと見るのがより正確でしょう。この2つの節は「そのとき」と始まりますが、これはその前の4節を見ればわかります。

「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」イザヤ 35:4

「そのとき」とは、「神は来て、あなたがたを救われる。」時に他なりません。つまり、イエス様が救い主として来る時です。当然ながら、イザヤ書のこれらの節はイエス様についての預言です。そして、イエス様はこの個所をヨハネに伝えるようにとバプテスマのヨハネの弟子たちに言ったのです。ここから一つ分かる事があります。それは、イエス様がバプテスマのヨハネの疑いに対して、イザヤ書から御言葉を使ったという事です。

イエス様はしるしと不思議な業でもってバプテスマのヨハネを説得することもできたのですが、あえて御言葉を信じるようにと彼の弟子たちに言ったのです。これは悪魔がイエス様を誘惑した時と同じです。サタンも「あなたが神の子なら・・・」と言って誘惑しました。サタンに会う直前にイエス様は聖霊を受けました。そして、聖霊が鳩のように下りた時に父なる神から「これは私の愛する子」と宣言されていました。その啓示・霊的体験をサタンに言い聞かせる事も可能でした。或いは、偉大な力でその場でサタンをねじ伏せて、ご自分が神の子であると証明できたでしょう。でもあえて御言葉を使って対処されたのです。

人間の目には、より大きなしるしを見ればより信じる事がやさしいと考えてしまいがちです。その傾向は確かにあるでしょう。しかし、いかなるしるしを体験しても信じない人は信じないのです。パロが心をかたくなにしたように、人は神の御業を見ても「信じない」と自由意思で決断できるのです。何故なら、不思議な業やしるしは人を信じるように促す事は可能ですが、それらは人に信じる力を与える事はできないからです。

信仰に対するこうした人間的な解釈や考え方は、イエス様の弟子たちでも同じでした。「信仰を増してください。」とお願いしたように、多くの人も信じることができるように願っているのです。ところが、人が神様を信じる事ができる最も効果的な方法は大きなしるしや不思議な業ではないのです。人がイエス様を最も効果的に信じる事ができるのは御言葉です。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ 10:17

疑いからの解放も真理を知ることによって体験できます。イエス様も、バプテスマのヨハネに対して、救い主について預言されているイザヤ書の御言葉を疑うことなく信じなさいと教えられたのです。この箇所はバプテスマのヨハネも知っていたはずです。彼が来たるべき救い主の預言者として使わされていたのですから、この御言葉によって彼は勇気づけられたに違いありません。

ペテロも信仰について同じように正しく理解していました。

「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」第二ペテロ 1:17-19

「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」と書いてある通り、ペテロは素晴らしい経験をしました。直接父なる神の声を聞いたのです。ところが、「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。」と言っています。神の声を直接耳にしたという偉大な霊的体験よりも優れているのが「預言の御言葉」であると彼は言うのです。つまり、彼にしてみれば、そのような体験よりも御言葉は更に重要だと言うのです。一般のクリスチャンは大きなしるし、神様の超自然的な業を求めがちですが、ペテロのように御言葉の真理を理解する事がより重要だとは思わないでしょう。

霊的体験が悪いと言っているのではありません。しかし、御言葉の真理はそれよりも優れているのです。体験を重視して聖書を解釈してしまうと、本当に聖書が意味している真理とは違ったもの理解になってしまいます。その人の体験で個人的・主観的に御言葉を見てしまうと良くありません。ですから、個人的な体験を御言葉の解釈に利用する時には細心の注意が必要です。個人的体験はあくまでも神様がその体験を通して聖書の真理を教えている事を理解しなくてはいけません。何か特別な霊的体験をしたからといって、それを基にして聖書を解釈してしまうと、曲解してしまうケースがあります。そうではなく、それらの経験から主がどの御言葉の真理を教えているかを知る必要があるのです。

霊的体験はあくまでも、私たちが真理をよく分かるように主が用いるツールなのです。イエス様も「たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。」と教えています。御言葉の真理をすぐに受け入れる事ができないのなら、不思議な業やしるしを見て信じるように教えています。不思議な業やしるしは人を信じるように促す事が可能だからです。そうしたツールはうまく利用すれば役に立つでしょう。ただし、見ないで信じる者は幸いでありより多くの祝福を受けるのです。

疑いを克服する究極的な方法は、御言葉の力に頼るという事です。五感による捉え方でもなく、個人の霊的体験を重視する事でもありません。私たちは、御言葉が他の何よりにも勝って神様について教える事ができると悟る必要があります。百人隊長がイエス様に言った言葉を思い出してください。

「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」マタイ 8:8-10

イエス様はこの百人隊長の信仰を見て驚かれ、そして公然とお褒めになりました。彼が、「ただ、おことばを下さい。」と言ったからです。通常だったら「祈ってください」、「手を置いて癒してください」、或いは、マルタのように、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言うでしょう。ところが、百人隊長はイエス様の言葉だけで十分だと考えました。実際に、神の言葉には力があります。その言葉によって全てが造られたのです。

一方で、イエス様の弟子のひとりであったトマスは信仰の模範としては失格者でした。彼はイエス様が蘇った時でも自分の目で見てイエス様の体に触れるまでは信じないと頑固な態度を取っていました。イエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」とおっしゃっています。私たちも不思議なしるしや大きな業を見なくても信じるなら、より大きな祝福を受けるのです。つまり、信仰によって歩む度合によって祝福されるのです。神様の超自然的な力を否定してはいません。ただ、それらを追っかけて各種のセミナーや集会に集うのは間違った動機によるものです。むしろ、信じる者にしるしが伴うように信仰によって歩むべきなのです。業の結果を見て信じるよりも御言葉を信じる方が遥かに優れているのです。

イエス様がバプテスマのヨハネに慰めの言葉をかけなかったのは、彼を気遣わなかったわけではありませんでした。むしろ、彼にとって最も良い方法で彼が信仰を持てるように励まされたのです。もしかするとあなたは今信仰を求めて祈っているかもしれません。そうしたら信仰が増すと考えているかもしれません。主の御業を見てから信じるのも一つの方法です。しかし、疑いを克服できる力は御言葉にあるのです。