今日、多くの教会において「神の主権」が誤解されています。カルヴァン派の影響が恐らく一番大きな原因でしょう。神様の絶対的能力とそのみこころは全ての事柄に及ぶという教え(予定説など)は信仰を破壊します。この教えで問題なのは、神はみこころのままに全てを(良い事も悪い事も)コントロールしているというところです。神様がサタンさえも操っているという教えは聖書的ではありません。もし、神様が全ての事についてコントロールしているのならば、私たちの決断や行動は全て意味のないものになってしまいます。カルヴァン主義ではなくとも、人の自由意志を否定し神様の主権だけが存在しているという考えは、諸教会で大きな混乱を招いています。

良いことも悪い事も全て神様が原因であると言う教えを聞いているクリスチャンは、その殆どが希望を失っています。全ては神の御手にあり、私たちの信仰とは無関係に事が起きるとすれば、神を信じるという意味がどこにあるのでしょうか?たとえ信じても救われるかどうかは神様次第というのです。信じるというのが私たちの自由意志によるのではないなら、神様は私たちをコントロールして信者を作り出している事になります。もう宣教の意味もありませんし、イエス様の十字架の意味もありません。結局、神様がコントロールしているというのが真理であるなら、全て私たちとは関係のない事です。

予定説などは神の力とそのみこころ、そして人の自由意志を曲解した悪魔的な教えです。「神様は全知全能だから、御心とは違う事はこの世界で何一つ起こらない」という解釈は間違いです。神のみこころに背いた人は大勢いますし、それと全知全能の神とは別なのです。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」第二ペテロ 3:9

私たちの主は誰一人として滅びるのを望んでいません。全ての人の救いを望んでいます。ところが、人がキリストを信じて救くわれるという福音の計画は、それが神のみこころであっても必ずしもその通りになっているわけではありません。つまり、主のみこころとは別に、人間の自由意志によってそれを決定できるのであり、そればかりか、人のする事の殆どは彼らの意思によって決定されその通りに事が成っているのです。

祈りなどのケースによって時々、主の介入があるくらいで私たちがやっている事の多くは私たち自身がそれを決定して行っています。主がどんなに人を救いたいと望んでも、人間の自由意志はその御心をも退ける事ができるのです。ある意味、人の自由意志は神の力よりも強いのです。その自由意志は神様によってコントロールされていません。神様が私たちに正しい道を選ぶようにされたのは、私たちの自由意志を尊重している証拠です。神様が私たちに自由意志を与えておいて、実は裏でコントロールしているなどという考えは人間の高ぶりなのです。

イエス様の十字架は恵みですが、一人一人が信仰によって救いを得るしかありません。十字架によって恵みが現わされたのですが、それだけで全ての人が自動的に救われるのではなく、恵みと信仰が一緒になるときに救いがもたらされます。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」へブル人 4:2

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

恵みは神からのものです。信仰は私たちのイエスキリストの恵みに対する正しい応答です。神様に対する私たちの間違った応答は、全て恵みを軽視する行為なのです。

神の主権についての誤りで見逃せない部分は、全ての禍や災難、病気や死も神様がコントロールしているというものです。つまり、神様は悪い事をする、或いは、それらを許可しているという考えは、神様の定義自体が危険なのです。その様な神は本当の神ではなく、サタンでしかありません。神とサタンの区別がつかないような教えは悪魔的なものです。聖書の神様は愛の神です。禍と愛は両方とも神からのものだとしたら、神様の性質そのものが矛盾している事になり、そう教えている聖書も矛盾しており、それはもはや真理という定義にならないのです。

人は自分の命に対してそれをどうするか自由意志を与えられているのですが、主の導きの中においてのみ成功を収めます。

「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」エレミヤ書 10:23

神様は私たちを創造しましたが、それは人が神とともに歩んで交わりの中で生きていく事が理由です。人が神との交わりから離れて独立して生きていく事は望んでいません。私たちの周りにある問題は、私たちが神様との交わりから離れたから起こっているのです。私たちの直面する問題の全てが神様から来ているなら、私たちの信仰を神に置く事はできないでしょう。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブの手紙 4:7

この個所から明らかなように、神と悪魔の対立が存在しています。全ての事は神から来るものではなく、悪魔の仕業もあるのです。神からのものに対して私たちは従い、悪魔からのものは立ち向かって抵抗する必要があるのです。神様が全てをコントロールしているから、全ての物事はなるようになるという考えは間違っています。

もし神様が病気を通して何かを教えているとすれば、その人は病院に行ってその病気を取り除くような事はしない方が正しいのです。何故なら、それは神様の計画に反抗しているからです。ところが、神の主権についてよく分からない人は、病気でさえも神様からのものであるとし、それを通して彼らは何かを学ばされていると主張する反面、必死にその病気からの回復を願う事が矛盾しているという事に気付いていません。病気という悪いものが神様から来ているというのは、神の愛と恵みについてよく理解していない証拠です。もし神様が病気をもたらしているのなら、なぜイエス様は癒し主として言われているのでしょう?福音書に記されている多くの癒しの御業を成し遂げたお方が、病気によって罰を与えるでしょうか?モーセの律法の下では、その様な呪いや災いがあったりしました。しかし今は恵みの時です。

あらゆる病気の原因はサタンからのものです。あらゆる呪いの始まりがサタンからのものだからです。その様なものを神様からと考えるのは聖書的ではありません。神様が直接神様に逆らった人たちを滅ぼされた旧約時代のケースでも、既に神の交わりから離れてしまっている結果なのです。しかも旧約時代においては、キリストが神の恵みを具体的に現していない為に、律法を通して神に近づく事しか分からない人達が殆どでした。その為にその時代においては、ほぼ全ての人が神の恵みを悟ることができず、宗教的な概念で神様を理解していました。ですから彼らの理解では、全てが神からのものであると考えていました。しかし、根本的に神様からの罰ではなく、病気などは彼らの罪の結果であり、それは律法が要求する罰だったのです。

イエス様の十字架の御業は神と人間の和解の為であり、恵みの福音にあずかる私たちにとっては、罪ゆえの刑罰はなくなりました。癒しも罪の赦しも全てが十字架によって解決されたのです。この十字架による恵みの現れが神のみこころであって、旧約時代のモーセの律法による生き方は神のみこころではありません。申命記28章4節によえば、病気は呪いとして扱われています。そして、その呪いは神からのものではなく、人間自身の罪の為に他なりません。

病気を試練と考えて神様からのものだという人は、その考えを改める必要があります。確かに病気や人の死を通して何かを学ぶ経験もあるかもしれませんが、この場合、病気や人の死そのものが人に何かを教えているのではありません。それらは単なるきっかけに過ぎないのです。私たちが真理を学ぶのは聖書の御言葉を聞いた時なのです。

ですから、困難な経験をしなくても私たちは常に聖書から何かを学ぶことができます。時に人がつらい経験を通るのは、サタンからの攻撃にあっているケースが殆どであり、それ以外のケースでは自分で蒔いた種を刈り取っているだけなのです。油断して主との交わりの外に出てしまうと、そういう困難に会ってしまいます。

父なる神様は子供たちに対して、悪いものを与える事はありません。サタンの存在を知らずにいると、この様な間違いにも気づきにくいのです。こうした考えが一般化されてしまっている為に、多くのクリスチャンは何事も我慢するのが美徳だと思っています。まさに、これはサタンの思うつぼなのです。サタンは自分のした悪事を神様のせいに仕向ける考えを予定説などを通して思いついたのです。こうしてクリスチャンの中でも神様に対して愚痴不平を言ってしまったり、仮にそこまで行かないにしても、彼らの中では癒しや解放その他の恵みに対する信仰が働いていないケースが殆どです。かろうじて天国に行くことの望みだけがクリスチャンの唯一の生きがいとなってしまって、ここだけにしかクリスチャン人生の意味を見出そうとしません。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ 10:10

サタンは盗人であり、盗んだり殺したり滅ぼす為だけの存在なのです。そして、イエス様は、私たちに永遠の命を与え、それをさらに豊かにする為に十字架にかかったのです。単に永遠の命だけを与える為に十字架に掛かったのではありません。クリスチャンがこの世に生きている間も豊かになれるという約束が神の恵みなのです。神様は全てをコントロールする事をあえてせず、サタンにも人間にも自由意志を与えました。ですから、神の恵みは受け取る人間の意志が必要なのです。十字架の恵みだけでは自動的に全ての人を救う事はできません。そして、それを邪魔するサタンの意思を忘れてはいけません。敵を知らずにいると負けてしまいます。敵の存在を知って戦う必要があるのです。

全ての良いものは天から来るのです。良いものと悪いものを見極めるのは難しい事ではありません。ただし、その判断には聖書の知識が必要です。神の主権は確かに存在しますが、神様はその主権を乱用して悪い事をするお方ではありません。そして、主からの恵みを現実化する為には主との交わりから離れていた事を悔い改め(考えを変える)、信仰に立ってサタンに立ち向かう事です。