「赦された罪人」 という表現を聞いた事がある人はいると思います。通常この言葉が意味するのは、「クリスチャンは未信者と同じように罪人だけれども、イエス様を受け入れているので罪が赦されている」というものです。クリスチャンでも罪を犯してしまう為に、この様な表現の間違いに気づかない事があるようですが、実はこれは聖書的ではありません。

まず第一に、

「イエス様の十字架の恵みによって全ての人の罪が赦されています。」

つまり、この地上で罪が赦されていない人はいないのです。十字架の御業によって赦された罪は信者の罪だけでなく、未信者を含む全世界の人の罪なのです。それともクリスチャンの罪だけが赦されているのでしょうか?もしそうだとすれば、クリスチャンがまだ未信者であった時には赦されていなくて、信じた時に赦されたのでしょうか?

人が神を信じた時に初めて人の罪が赦されたのではありません。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ 5:8

全ての罪が赦されているという事は、アダムの違反、いわゆる「原罪」も含まれていて、それは十字架の御業によって取り除かれているのです。

自分たちが罪に対して何かしたからといって赦されるものではないのです。罪の告白をしたからとか、罪の悔い改めをしたから赦されたのではありません。恵みによって赦されているのです。「罪を悔い改めないと赦されない」という条件付きの恵みなら、それはもはや恵みではありません。十字架は既に完了した神の御業ですので、人の全ての罪は赦されたという宣言が成された事になるのです。

第二に、

「イエス様を信じた人は義人とされています。」

クリスチャンはイエス様の十字架を信じる事によって義人とされます。信仰によって人は義人となるのですから、主にある私たちはもはや罪人ではないのです。しかし、殆どのクリスチャンは自分を義人だと考えていません。何故なら、自分の犯してしまう罪に目を向けてばかりいるからです。確かに罪を犯す事は決して義ではありません。しかし、未信者とは違ってクリスチャンが罪を犯しても義人と認められるのは、イエス様の十字架の御業を信じているからです。それから、同じ罪を犯してしまうケースでもクリスチャンと未信者とでは大きな違いがあります。

「原罪」を含む全ての罪が取り除かれたので、人は罪と死の原理から解放されています。律法はそれらを解放できす、むしろ人を罪に定めた為に死をもたらしました。ここで知っておくべき重要な事は原罪の影響以外に、あるものが原因となっていてクリスチャンは罪を犯しているという事実です。それは罪の影響と同じ働きを持っている「肉の思い」です。肉の思いとは、五感による物事の認識に基づいて傾倒してしまう考え方や見方です。パウロは肉の思いについてローマ書の7章と8章で詳しく説明しています。

未信者は、この肉の思いによって物事を見たり判断したりする事しかできません。信者の場合は選択肢がもう一つあります。キリストの思い、或いは、御霊の思いによって聖書的な考え方で歩める特権を持っています。ただし、この特権を知らない間は未信者と変わらないような生活をするでしょう。クリスチャンが救われた後でも罪の性質はまだ残っていると間違って教えられている原因は、この肉の思いと混同した為です。

クリスチャンでもその歩みが幼い時には、肉の思いによって歩んでいる為に、罪を犯してしまう事も頻繁にあるでしょう。しかし、信仰の成長と共にそれが変わっていきます。パウロでさえ、その成長の過程を通りました。彼は、若い時には完全となる為に走り続けていましたが、晩年の頃(第2テモテを書いた頃)には走り終えたと言っています。

時々失敗する事はありますし、それが罪だとしても、「クリスチャン失格」というレッテルを貼られる事はありません。世の人たちはクリスチャンの小さなミスも非難するかもしれません。サタンも責めます。私たちも自分を責めてしまう弱さを持っています。しかし、私たちの神様は憐み深く恵み豊かなお方なのです。

罪の性質 その2 へ続く