「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 第二コリント 5:17

新しい霊によって生まれ変わったクリスチャンは聖霊の内住があり、御霊によって歩むことができます。ですから、どうして罪と聖霊が両方存在する事があるのでしょうか?聖い者として認められているのに、どうして私たちは罪の性質を持っていると考えるのでしょうか?むしろキリストの御業の恵みによって、私たちは義人となったと信じるべきなのです。ですから、聖書では本来ならばキリストにあるクリスチャンは罪を犯すことがないと教えているです。もちろん、その条件として必要なのが、キリストの思いによって考えを変えてキリストの義によって歩む事です。

「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマ 6:14-18

殆どのクリスチャンはちょうど未信者と同じように、生きていて罪を犯す者として自身を見ています。それなら次の聖句はどのように捉えるべきでしょうか?

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」 ローマ 6:6-7

私たちの「古い人」はイエス様と共に十字架でつけられ死んだ事になっているのです。これは過去に起きたという過去の出来事ではなく、古いアイデンティティーの原因であった原罪が取り除かれている為に、古い人は死んでいるという真理を表しています。

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」コロサイ 3:3

クリスチャンは生きていて罪を犯すのではなく、新しい霊として生まれ変わったので、(肉に対して)死んでいて罪を犯さない状態にあるべきです。ただし、この聖句を信じないのなら、その歩みは未信者と同じになってしまいます。この御言葉を信じるのが成長の第一歩といっても過言ではありません。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」ローマ人 6:4

新しい歩みをする事ができるようになったクリスチャンなのですが、それを知らないでいると、罪は取り除かれているにも関わらず「古い人」のままで生活してしまいます。ある意味、肉の思いが死んでいるべき古い人を復活させてしまうのです。ただし、この真理を知っただけで直ぐに罪を犯さなくなるわけではありません。御言葉の真理に考えを変えて、正しい方向へと成長する必要があります。その成長過程においては失敗する時も多々ありますが、そのうち罪を犯す事も減り、次第に信仰の成長がはっきりとしてきます。これは宗教的な努力による賜物ではなく、思考の一新によって信じた結果の実なのです。

私たちの思いというのは経験や学習という過程を経て形成されていきます。一度ある種のパターン思考が確立すると、人はその様に考える傾向を持ちます。確立された考えでそのまま長い間生活していると、それとは逆の考えに切り替える事は難しいものです。いわゆる伝統的な教えなどは、人をある種の考えに縛ってしまいます。一度そうなると、人は伝統だからというだけの理由でよく理解しないまま事を行ったりします。

「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」マルコ 7:7-8

一般的に広く教えられている教理や神学の多くは人による伝統の教えになってしまっています。その全てが間違いではないのですが、それらは部分的にしか正しく捉えられていない為に、恵みの真理が宗教的な行いという律法に戻ってしまっているのです。罪の性質についても同様です。罪を取り除くためにイエス様が十字架にかかって私たちを解放したのに、多くのクリスチャンは罪から解放されていないと教えられているのです。

「クリスチャンでも原罪はまだある」のが正しい真理なのか、それとも世の罪を取り除いた神の子イエス・キリストの十字架の御業が真理なのか?答えは明白なはずです。イエス様の流された血が、全ての罪を取り除く聖なる血である事が理解できれば易しい問題です。それでもまだよく分からないのなら、ローマ書7章の誤解が主な原因となっているからでしょう。ローマ書の7章と8章をしっかりと理解していれば、人は肉の思いだけではなく、霊の思いによっても歩む事が可能であると知る事ができます。そして、私たちは肉の思いによって歩む必要がないのです。

クリスチャンでも肉の思いになる傾向があるのは、思考そのものは新生の後も変わっていない為です。「原罪」と呼ばれる罪の性質はないのですが、古い考えはそのまま記憶と共に残っています。ただし、それに頼って生きなければならない訳ではありません。イエス様は、十字架でその古い考えを「原罪」と一緒に取り除く事はできませんでした。何故なら、各自の肉の思い自体はアダムの違反ではないからです。これは私たちの自由意志に関わるもの、特に魂の領域にある「思い・知性」の問題です。神様は私たちに与えた自由意志を取り去るような事はしなかったのです。この自由意志こそが神様からの素晴らしい賜物である事に気づいている人は少ないでしょう。

主の十字架の御業によって、もう私たちは罪から解放されています。ですから、御霊の思いによって歩む事が可能なのです。ただし、御霊の思いになるように常に聖書の言葉を蓄えて信じ続ける必要があります。これは律法の行いとは違い御言葉による信仰の歩みです。クリスチャンでも、肉の思いのまま長年人生を過ごしてきたなら、諸々の判断が未信者と同じになっていてもおかしくありません。そうではなく、全ての事を新約聖書的に考えるのが御霊の思いによる歩み方です。

新約聖書の真理を信じてそれを普段の生活で実践し、キリストの教え・新しい人としての視点によって物事を判断していないのなら、あなたの考えは肉の思いであり、それによって歩んでいるうちは罪の束縛から解放されません。そういう人が条件反射的な判断が要求される場面では、つい感情的になって怒ってしまったりして、普段の肉の思いの影響による悪い習慣が出てきます。そうではなく、真理の御言葉で全てを判断するようにします。そういう事は難しいと思うかもしれませんが、それは新約聖書の教える新しい考え方に慣れていないからです。クリスチャン成功の秘訣は、考え方を変える(本当の意味での悔い改め)だけで良いのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 ローマ 12:2

心を一新する(考えを変える)のは私たちです。それは神様がやってくださるのではありません。パウロは思考の一新によって自分を変えなさいと促しています。何故なら、クリスチャンにはそれができるからです。罪を犯さずにはいられない未信者と何も変わっていないのなら、どうして私たちは罪と死の原理から解放されていると言えるのでしょうか?イエス様を信じているのに生活が何も変わっていないのなら、どこかがおかしいはずです。一般的な「キリスト教」から見れば、「それはあなたの努力が足りないから」となるかもしれません。しかし、宗教的な律法の行いと信仰の成長は無関係であり、信仰のない行ないによる義は新約聖書的な教えではありません。

多くのクリスチャンの間で何が起こっているかと言えば、そもそも殆どのクリスチャンが正しい成長の方向も知らないのです。最初の一歩で間違っています。「原罪」という罪の性質を持っていると思いながら信仰の成長を考えている時点でアウトです。そうではなく、罪に対して既にキリストと共に死んだという真理からクリスチャンはスタートするのです。

成長の為にあらゆる慈善を試みるという視点がアウトです。成長は自然とその様になるというプロセスであり、御言葉を信じ続けた結果なのです。内側が変わったら、その変化が外に出てくるようになるべきです。私たち人間は、外側の言動など目に見える物ばかりに意識を向けてしまうのですが、内側が変わらないのなら、その人自身は何も変わっていきません。一時的な慈善パフォーマンスをしても、それは神に栄光を帰すものではない、はかない人の努力にしか過ぎないのです。