1940年にチャールズ・プライスが書いた The Real Faith というタイトルの本があります。彼はその本の中で、人の信仰ではなく神の信仰によって奇跡は起こるという趣旨のメッセージを書いています。人間の信仰と神の信仰を比較させている事もあり、何となく正しいように聞こえますが、根底の所で「神の信仰を得るには」が焦点になりがちな為に、幾つかの誤解を招きやすい点があります。彼の本そのものが間違いというよりも、本の中の彼の表現に誤解を招くようなものがあるという事です。その典型的な誤解の一つとして、「自分に信仰がないのは神の信仰を持ってないからだ」という考えです。

神様から神の信仰をもらえれば、それによって信じる事ができるという解釈は聖書的でしょうか?もしそうだとすると、自分は神の信仰を持っていないと考える人達は、自然とその為に祈り求めるようになるでしょう。逆に、何故自分には神の信仰を与えられていないのかという疑問も生じてきます。必死に求めなくてはいけないと力んで、ますます神の信仰を求める祈りに励んでしまう、その様な方向に走ってしまう事もあるでしょう。

「信仰が与えられる」という表現自体も、「神から信仰を与えられたので自分は信じる事ができる」という誤解が含まれています。「神から与えられた信仰=それにより信じる事が可能」という考えになると、聖書の本来意味する信仰から違ったものになります。「私たちが信じる事ができるのは神の信仰による」という事で、それを正しいと考えて、「私たちに信じる力を与えてくださった神に栄光あれ!」という風に説教されれば、多くの人が「アーメン!」と賛成するかもしれません。しかし、これも信仰について聖書的な見方にズレがあります。

神様が私たちに神の信仰という信じる力を与えてくださったのなら、私たちは信じるようにさせられたという事になってしまいます。つまり、私たちの意思に関わりなく、信じる事のできる力が与えられるという見方です。少し言い方を変えましょう。仮に、「信じさせて下さい!」という私たちの謙遜的な祈りに神様が答えてくださる、というのが信仰を得る秘訣だとしたら、その祈りが信仰の獲得よりも先に来るわけで、その祈りなしでは何も信じる事はできないという事になるのでしょうか?

未信者のケースでこれを考えてみると、彼らはそもそも神様に祈り求める事をしません。それなのに、未信者が神様を信じる事ができないのは、神様から信仰を与えられていないからだという理由につなげてしまうとややこしくなります。未信者に神の信仰が与えられるのは、彼らが信じた時なのか、それともそれ以前なのか・・・。その迷宮に入らないようにしたいものです。

私たちはどの様にしてイエス様を信じるようになったのか思い出してみてください。神様から信仰を与えられたから信じる事ができるようになったのではなく、私たちが私たちに与えられている自由意志によって最終的に決断した(信じた)だけなのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ 2:8

この聖句中の「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」という文の主語である代名詞「それが」が信仰を指していると勘違いすると、救われる際にイエス様を信じる事ができたのは、神様がその信仰を与えてくださったからという解釈になってしまいます。実は、「それは」の代名詞は中性代名詞(ギリシャ語「τοῦτο = touto」)です。ギリシャ語では「恵み」という名詞も「信仰」という名詞も女性名詞です。もし「それは」の代名詞が信仰を指して言っているなら、文法的に女性代名詞になるべきなのです。中性代名詞の「それは」は(当然ですが)「恵み」でもありません。何を指しているのかというと「救われたという事」なのです。つまり、救いが神様からの賜物であるという訳になります。

信仰という語が掴みどころのない概念として捉えられている為に、このような解釈が生じてしまうのですが、まず知っておかなければいけないのは、信じるのは他でもない私たちであるという事です。「誰が何を信じるか」をよく理解していないと、信じる事のできる能力が神様から与えられるという解釈を聞いた時に、そういった可能性もあるのではないかと考えてしまうでしょう。そうなれば、信仰についての真理が分からなくなってしまいます。主を信じるというのは、神様の恵みに対する私たちの応答です。主が私たちに期待しているのは私たちが主を信じ、主の御言葉を信じるという事なのです。信仰がなくては神に喜ばれませんとパウロは言っています。信仰というのは、私たちの自由意思で選択する行為なのです。ですから、神様が私たちに信じる事ができる力を与えて下さるという考えは的外れなのです。

私たちに与えられているのはむしろ自由意志です。それがあるからこそ、人は御言葉を聞いて信じたり、或いは御言葉を聞いても疑ったりするのです。神の力が私たちに信じるように働いているのではないのです。信じるとは、単に私たちに与えられている自由意思による決断なのです。*「信仰が神から与えられる」唯一のケースは、ローマ 12:3 にある恵みの表れ(賜物)を通して各自がキリストのからだとしての機能を果たすという箇所です。しかし、この場合でも、信仰を働かすのは自由意志をもつ私たちです。

主との交わりが愛に基づいているのは、自由意志によって私たちが主を信じるからなのです。私たちがロボットのように扱われているのなら、どうしてその様な関係が愛と言えるのでしょう。親と子の関係を見ればすぐに理解できるはずです。親は子が自由にしているのを喜ぶはずです。どの親でも、自分の子供が自由に良い行いや判断をするのを喜ぶはずです。言うことを言われてただ従うだけの子供ではなく、自ら積極的に判断して良い事をするのを見る時に、親としてその子供を誇らしく思うはずですし、それを強く望んでいるはずです。父なる神様もその様に私たちを見ておられます。